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fc2logo本 紹介 京極 夏彦 『鉄鼠の檻』その②


д゚)チラッ
どうも僕です。


鉄鼠の檻


本 紹介 京極 夏彦 『鉄鼠の檻』①の続きです。

※ネタバレ気にする方は読まずにスルーしてください。
ε≡≡ヘ( ゚Д゚)ノ



今回の『鉄鼠の檻』ではついて膨大な記述がなされている。(多分かなり解りやすく)
『鉄鼠の檻』p736をから読めば大体は把握できるのではないでしょうか?

※京極堂が常信和尚の憑き物落としをする場面
禅についてこのように京極堂は語っている。。。

『宗教には神秘体験が必要不可欠だ。しかし神秘体験と云うのは絶対に個人的認識なのだ。仮令どれ程凄い体験であろうとも、神秘は凡て個人の脳内で解決できてしまうものだ。その神秘体験を何等かの説明体系を用いて個人から解き放ち、普遍的なものに置き換えると宗教が生まれる。つまり神秘を共有するために、凡ての宗教は道具―言葉を必要とするものだ』
中略
『そう。禅は個人的神秘体験を退け、言葉を否定してしまう。禅で云う神秘体験とは神秘体験を凌駕した日常のことを指すのだ。つまり、数ある宗教の形の中で、殆ど唯一、生き乍らにして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだ』
(京極 夏彦 『鉄鼠の檻』p1206)





禅宗というのももともとは仏教ですから、開祖は釈迦に行き着くわけですが、一般には菩提達磨(ぼだいだるま)が始祖ということになっています。南インド出身の達磨は、南朝梁の武帝(在502~549)の時代に中国を訪れます。嵩山(すうざん)の少林寺で九年間壁に向かって座禅を組み(面壁九年)悟りを開き、左腕を切って求法の決意を示した慧可(えか)に禅の奥儀を授けたと伝えられています。

「悟り」の境地というものは、言語によって他人に伝えられるような性質のものではありません。そこで座禅という行為の中にその境地を見出そうとする。とはいえ、人間というのは言葉によって何かを人に伝えようとする生き物ですから、「悟り」について何がしかを語りたくなってしまいます。その一つの形が、本文にも登場する「十牛図」ということになるようです。

十牛図というのは宋代の禅文献の一つで、禅宗における修行と悟りの在り方を象徴的に描いた10枚の連作画のことを言います。北宋末期に臨済宗の廓庵志遠(かくあんしおん)が十枚の図に「頌(しょう)/教えを韻文の形で描いたもの」を附した十図がよく知られています。廓庵禅師については生没年等についてもはっきりわかってはいません。


非常に解りやすかったので是非ここを読んでください。
光陵生にススメる100冊の本より一部引用





【禅における悟り】とは何か?
悟りとは言葉では他人に伝えられる性質のものではない。
巻末の正木晃氏が解説してある通り、禅における悟りとは言葉による表現を全く拒否している言語表現の彼方にあるものである。
脳が生む言葉というものの、檻から外れなければ理解することも難しいのではないだろうか?
しかしこの『鉄鼠の檻』ではそれを言葉ではあるが、そのニュアンスを伝えている。

目的があってそれを意識しているうちは本物ではない。
病の人は健康を意識する。しかし本当の健康とは健康という概念が失われている状態が真の健康であって、
自己に対しても世界に対しても同じく自分とは何か世界とは何か問うているうちは本当ではない。
自分・世界というものが無くなって初めて自分があり世界があるという。
と京極堂は本書では語っている。

その昔。ある僧が師匠に尋ねた。
―犬に仏性はあるでしょうか?
師匠は即答した。
―ある。
僧は重ねて尋ねた。
―それでは何故犬は畜生の姿でいるのですか?
師匠は答えた。
―仏性があると知りつつ悪業を為す業障故だ。
別の僧がもう一度同じことを尋いた。
―犬に仏性はあるでしょうか?
すると師匠は今度は、
―ない。
と即答した。そこでその僧が重ねて、
―何故ないのですか?
と問うと、
―仏性があることを知らぬからだ。無明の迷いの中にあるが故だ。
と師匠は答えた。

中略
『はあ、そうでなくて、あるのもないのと同じではないかと云いたかったのです』
『はあ?』
『犬に仏性はあるが、それはないのと同じことなのではないのかなあと、思ったのです』

中略
『はあ。つまりは凡ては無であり、無である以上あるとかないとか云うのは同じことだと。そこで僕は昨晩の僕の最初の質問、解ったことと解った気がすることは同じか否かと云う問いの解答が―』
『解っちゃったんですか?』
『敦子さんの言葉を借りれば悟ったのです。それは、巧く云えませんが、こうなのです。
解っていても、解った気になった途端にそれは解っていないのと同じことになってしまう、つまり解った気になると云うのは、解ったこと自体を自分自身に説明している状態な訳です。本当は解っているのに、説明された段階ではそれは本質ではなくなっている。だから解った気になっているうちは解ってはいるが解っていないのと変わりないのです。説明抜きで解ったそのものを、生きること自体で体現して、それが初めて解ったと云うことになるのでしょう』

(京極 夏彦 『鉄鼠の檻』p580~p588)



今川雅澄が禅宗の公案のひとつ狗子仏性を聞き、
彼なりに解ったではなく悟った場面です。

狗子仏性
※禅宗の公案の一。狗子(犬のこと)に仏性があるかないかという論議を契機として、有無に対する固定した見方を打破する論。趙州狗子(ちょうしゅうくし)。コトバンクより


これも禅でいう小悟なのです。


仏教の考え方ではこの世は苦しみや汚れ・苦悩に満ちていると捉え。
・この世で人はなぜ苦しむのか?
・この苦しみから解放される道はあるのか?
と考える。

本来、すべての人は内に仏性があり、
自分の本質・根源を正しく見極めること(四諦八正道を知り実践すること)により、
この「苦しみ」から抜け出して、穏やかな心になる真理(法)に目覚めることができると考える。
つまりこの真理を悟ることを究極目的としている。

四諦(4つの真理)

   苦諦(くたい)
   集諦(じったい)
   滅諦(めったい)
   道諦(どうたい)

八正道(涅槃に達するための8つの正しい道)
   正見(しょうけん)
   正思惟(しょうしい)
   正語(しょうご)
   正業(しょうごう)
   正命(しょうみょう)
   正精進(しょうしょうじん)
   正念(しょうねん)
   正定(しょうじょう)

禅では悟りや最終解脱は修行の最終地点ではなく、まして悟りは一度だけではない。
禅においては悟後の修行、悟った後の修行が大事であると考える。
つまり己の本来の仏性を知り真理を悟る。しかし悟後は本来の姿に立ち戻ったにすぎない。
悟りは常にここにあり、悟りと修行は不可分で、悟りとは修業そのものであり、生きていることが悟りなのだと考えられている。
つまり生涯、悟り続け修行し続けることこそが、本来の姿である。ここに禅の真髄があるらしい。



こうして書いては見たものの・・・
まとまらない(´ε`;)ウーン…
伝えれないほど難しいものなんですね。
私自身なんとなくではありますが禅と言うものがこの『鉄鼠の檻』を読んで掴めた気がするんですが。。。

是非読んで考えてください。
面白さはそこにあるのかもしれません。

と話をもどして

『この世には―不思議なものなど何ひとつないのだよ。関口君』
(京極 夏彦 『鉄鼠の檻』p1254)


がようやくp1254に出てきます。キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

で結局は犯人は北宗・漸悟禅の流れを汲む方でした。
で動機はといわれると、単純に「悟りにいたった順に、次々に殺して行った」

『百年経って、拙僧にはその一瞬がないのである。だから、瞬時にしてそれの訪れたる者が妬ましかったのである。悔しかったのである。何と修行の足りないことよ。徳の足りない僧であることよ。だからその、もし己が悟ることあれば悟っておる状態のまま死んでしまえば幸せと、そう思っていたのである。浅ましい、浅ましい、浅ましいことよ。正に了稔様の仰せの通り、拙僧は檻の中の鼠である』
(京極 夏彦 『鉄鼠の檻』p1304)


ということでした。

・北宋禅は修行を続け、ゆっくりと段段に悟って行く。(漸悟禅=段階的に悟りを進める)
・南宋禅は悟るときは一発で悟る。(頓悟禅=直下に悟りに至る)

ちなみに日本の現在の禅は全て南宋禅の流れを汲んでいて北宋禅は廃れている。
この悟りへのプロセス差が今回の殺人の引き金

多くの「鼠」(疾しい気持ちや妬み・疑い)が、この寺の中でまさに妖怪「鉄鼠」の如く、
変化転生し渦巻いていた。。。

明慧寺という外界との接触を拒絶した檻のような寺で起きた「箱根山連続僧侶殺害事件」はこうして終わりましたとさ。。。


|Д´)ノ 》 ジャ、マタ


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